「知らない」「判らない」が正義

前回の投稿で古い記憶を呼び起こしたので、今回も古い話を元に書き始めます。

「私、その業界の事は知りません」と、案件の紹介をしている冒頭から腰を折られる事があります。「ご謙遜を」と取り成してみても、「いや、判らないので、この打ち合わせにいる意味があるのかなぁ」「トレーニングも受けていない人間ばかりが参加して、何か意味があるのかなぁ?」と更に症状が悪化していきます。紹介の打ち合わせを設定した担当者の顔を見ても「無」な感じで、空虚というより酷く後味の悪い印象だけが残ります。

若い頃、先輩から「良いか、お客さんに『判りませんは禁句だ』」と念押しをされながら、毎度のミーティングに参加していました。まだまだ下っ端で意見を出すレベルにも言っていないのですが、それでも無茶振りのような質問が飛んでくるのですね。先輩が同席しているので、安心感もあって、私自身はそれほど困った記憶はありません。
が、数年前、あるSES会社の部長さんとお客様先に訪問した時に「さぁ、最近の技術には疎くて」と部長さんが言い出したのです。いや、結構、そういう人には出会っていたのですが、この時は間が悪かったのでしょう。お客様から「え、部長さんは何しに来たの?」と直球の質問が投げつけられましたが、部長さんは「いや、紹介のアテンドです」と見事に明後日の方向に投げ返してしまいました。空気は悪くなるし、二度と同じお客様とは会う事が出来ませんでした。

逆に自分なら。と考えると、恐らくこの状況なら
・事前に打ち合わせを行い、アウトラインの理解をする
・自社での展開を含め、アテンドする意義を考察する
は最低限、やっておきます。
いや、これをやらないと単なる「口利き」でしかないのですね。

ただ最近、SESの文化を考えていると、部長さんのやり方が「当然のこと」として醸成されていたと理解しています(得心はしていませが)。

まず、彼がアポ取りを出来ただけでもNICEなことだったはずです。

国内のIT業界での多重下請構造の中で、お客様とのコンタクトやネゴシエーションすら分業化されています。このため、SESで「人」だけを出していた部長さんがソリューションや製品の紹介をするだけでも勇気が必要だったはずなのです。
ただ以前から書いている「新事業の立ち上げ」を検討していた部長さんなのですから、ビジネスの面では失格としか言えないのですが…。

このように分業化が進んでしまうと「知らない」「判らない」すら正義になってしまいます。分業化のメリットの一つはリスクを回避することにあると思っているのですが、リスクの発見として現場が「知らない」と言うことを知らせてくれているのですね。今ならパワハラ扱いですが、昔なら「勉強して出直して来い」って事なのですよ…。どうも「知らない」を言えないように刷り込まれた私などは、どうしても「判ることを探す」と言う旅を打ち合わせ中でもやっています(逆に「知らない」を正義にしている人とは話ができないのです)。無茶振りで何も情報もないままに拉致されるように客先打ち合わせに連れて行かれても、旅をしていれば、そして相手の方が本当に何かを欲しているなら、こちらから何かを発信する自信はあります。
しばしば若手も交えて外人のアテンドで客先訪問をした事がありました。すると若手は終了後にへとへとになっているのが常です。理由は簡単です。外人が若手に「お前も何か言え」とプレッシャーを掛け続けるのです。座っているだけなら参加した価値がないのですね。ところが、コンサルタントと言われる人でも、打ち合わせ中に「無言の行」を実践される方が少なくありません。私が無言を貫いているときは「あ、この打ち合わせは無駄」か「この打ち合わせに参加する意味が判らない」と言う状況です。つまり旅には出たものの、自分が旅に出た理由が見つからないケースです。例えば「俺、一人だとさ不安だからついてきて」に多いパターンですね。そしてもう一つは、お相手が特に何も求めていないケースです。これ、あるんですよ。理由は書きませんが。そして惰性のような「○○部打ち合わせ」的な社内打ち合わせでしょうか(笑)。

知らないが正義な事は、打ち合わせで言えば本来は「価値が無い」と同義だと思うのです。が、SESで社内打ち合わせのようなものばかりを経験していると、存在意義を示す言葉が「知らない」になってしまうんでしょう。これ、とても不幸だと思うのです。